失恋ふりかえり日記帳

25歳で初めての大失恋。もがいています。

11/6 もう戻らない、過去の幸せをどう捉えるか

元カノと付き合っていたあの期間は、疑いもなく幸せな日々でした。あの幸せに戻れるならば、すぐにでも戻りたいと思います。そして、今あの幸せがないということ、そしてとうてい取り戻せそうもないことに、とても悲しい気持ちになります。

今仮に自分が新しい幸せに向かって歩み始めようとしても、それがあの幸せを打ち捨ててしまうことを意味するならば、ためらわずにはいられません。あの幸せを取り戻すのを諦めてしまうことが怖いです。あとで後悔するのではないかと思います。

つまり、あの幸せはもう戻らないと思いつつ、それを諦める決心がつかない。実はまだ取り戻す方法があるのではないかと思ってしまう。そういう気持ちでいます。

 

失恋ということに限らず、過去の幸せは同じ形では戻ってきません。同じ人たちに会って同じように交流したとしても、それは今なりの幸せであって、あの幸せは似姿としてしか再現されません。(同時に、あの幸せを基準にしなければ、それは完全な形での新しい幸せでもあります。)

そう考えると、幸せは常に形を変えていくものであり、あの幸せとは、過去を顧みることによって生まれる、ある期間のさまざまな形の幸せの、総体としての形を指すことになるわけです。

 

自分は、幸いにして、これまで生きてきた中でたくさんの幸せを感じてきました。それらはすべて過去の幸せです。さまざまな人たちと出会い、交流し、そのまますれ違ってきました。会っている人、会おうと思えば会える人もいますし、行方知れずの人、会うことのできない人もいます。しかし、その時のその人はその時にしかおらず、その時のその場もその時にしかありません。そう考えた時に、万物が流転していくことが酷く物悲しく感じられてきました。

 

しかし、同時に、これは極端に悲観的な考え方だとも思います。人が時間に乗って生きる以上こうしたことは必然であるし、現に自分もそれをこれまで嘆くことなく受け入れてきたはずだからです。新しい日々には新しい幸せがある、それでいいではないか。これまで付き合ってきた人たちとも、都度新しい幸せが生まれていくのだ、と。

そう考えると、なぜ自分は今ここまで悲観的に考えているのか、と考えることになります。

 

一つは、単純な話ですが、そのように幸せを捉えていなかったからです。新しい幸せは過去の幸せとの連続として捉えるもので、過去の幸せの「似姿」などという表現では捉えていませんでした。なんというか、過去の幸せに軸足が偏りすぎているようです。

もう一つは、執着すべき幸せがあるのではないか、と思っているからだと思います。幸せは多ければ多いほど良い、というだけであれば、過去の幸せを嘆くことにはなりません。失いたくない(あるいは失うべきではない)幸せがあると考えるから、幸せが過去のものとなることを嘆くことになるのでしょう。

 

自分にとって、幸せが断絶されるという経験は、物心ついてからはおそらく初めてでした。幸せが過去のものになっても、相手が生きてさえいれば、会ってその続きをやることができる、という感覚がありました。元カノにフラれて、その続きができなくなる、ということは、自分にとってとても衝撃的でした。

そこから、「続きをやれない」過去の幸せ、という概念が生じることになりました。そうした幸せは「続きをやれない」ので、自分が忘れ去ってしまえば、そのまま時空の彼方に消えてしまうように感じられました。だからこそ、自分はその幸せを必死に忘れまいとしました。日記をつけ始めたのもこの頃です。

自分は、そうした記憶を褪せるに任せる、ということが、怖くてできませんでした。そして今もできないからこそ、こうして苦しんでいるのだと思います。

それは、色褪せていくものだよ、それでいいんだよ、という声に反抗するように、色褪せていくのは良くないんじゃないか、という気持ちがあるからだと思います。手放して、色褪せさせていくのが大人の態度だと思います。でも、自分はそれをしたいと思えません。

それはおそらく、元カノに完全に嫌われきって別れたわけではないので、会おうとすればおそらく会えるのではないか、と思ってしまっているからでもあります。死別などの、もっとどうしようもない形であれば、そのどうしようもなさが、手放す決意を助けてくれるのかもしれません。こう書くと絶対に怒られると思うのですが、まだ自分の手の内に選択肢があるからこそ、手放す決心がつかず、苦しんでいるのではないかと思います。

それとは別に、やはり色褪せさせたくない理由があって……。それは何なのでしょう、はっきりとは言えないのですが、本気で想っていて、自分なりに本気で愛していたあの時の自分の気持ちと、うまく整合性がつかないからかもしれません。あらゆることが流転していくとしても、自分だけは、自分なりの形という意味での一貫性を持っていたいと想っています。過去の自分は別人ではなく、流転しつつも、今の自分と連続しているのです。その、あの時の自分と今の自分が連続しているということを成り立たせるためには、あの幸せを手放すという選択肢は取れない気がしています。少なくとも、そうするための整合的な解釈を自分はまだ持っていません。あの幸せには、自分が自分であることの根本的な感覚が懸けられていたのだと思います。

 

万物が流転していくこと認めながら、自分だけは流転しつつも連続していたいと思い、その連続性の根本が流転するものとしての幸せに懸けられてしまった場合、過去の幸せは流転の渦の中でどんどん遠ざかり、その遠ざかるものを必死で繋ぎ留めようとせざるを得ないのでしょう。そうすることによって、渦の強さを思い知り、万物が流転していくことを意識することで、悲しみが生じるのだと思います。

10/16 その2 やはり、あの幸せに焦がれる

最近は、幸せについて考えていた。幸せは結果ではなく過程にある、だから幸せになろうとするのはその時点で間違っている、という記事を読んでほほうと思ったりした。

最近の自分は、やはりあの幸せがないと自分は満たされない、あの幸せを知った今となっては、別の人であれ恋愛関係になって生きていかないと満たされることがないだろう、などと思っていた。そして、そのことと、幸せは結果ではなく過程である、ということがどう関係づけられるか、ということをぼんやりと思っていた。

 

自分のあの恋愛は、事故のような恋愛だったと思う。自分がなにか積み上げた結果としての恋愛ではなく、自分が全く傍若無人にふるまっていて、それを勘違いした誰かによって生じた恋愛であったに過ぎない。自分はあの恋愛を不正に得てしまったのである。

いや、別に、必ず恋愛には努力が必要である、と言いたいわけではない。しかし、自分のような他人から必要とされない方向へ積極的に歩みを進めている人間にとっては、恋愛というのは相当な自発的努力がないと得られないものであると思っている。あのときのように、事故的な出会いがないものかと思ってしまっているのも事実だが……。

その事故的な恋愛において、自分は、受動的に幸福を享受していたのである。確かに、あの恋愛における幸せは、幸せになろうとして掴んだものではなかった。しかし同時に、自分の人生の過程にあった、とも言いにくい気がするのである。少なくとも、自分が順調に生きていたらなかったイベントであるように思う。事故なのだから。

そうした幸せから解放されて、まったく虚脱状態になり、またあの幸せを求めてしまっている自分は、確かに、やっと過程から幸せを得るということをやり始められるのかもしれない。

しかし、そのようにして得た幸せも、付き合っていたときのあの幸せを決して超えはしないだろうと思ってしまう。種類が違うのだと言われてもなかなか聞き入れられない。やはり幸せの絶対値のようなものがあって、それが、あの幸せを超えることはないだろうと思ってしまうのである。

 

それでも、幸せは結果ではなく過程である、という話は、最近の自分を見つめ直すのにいいきっかけになった。最近は、自分の不首尾のせいで日々幸せを取り逃している、という気持ちになっていた。本当は幸せになれるはずの出来事がそこかしこに転がっているのに、その幸せを受け取り損ねている自分が悪いのだ、と。

しかし、もし幸せが結果ではないとしたら、不首尾というのはそもそも成り立たないことになる。何かをするとき、そのしているさなかにおいて得られるのが幸せであるはずだからだ。最近の自分は、過去の事故的恋愛の幸せに焦がれるあまり、それに類似した事故的な幸せを求めてしまっていたのかもしれない。自分がそうした事故に遭えないのは、自分が不首尾だからだ、ということなのである。

そうではなくて、自分が生きていくうえでの行動の1つ1つが、それ自体としてすでに幸せなのである、ということなのである。そう言われてみれば、意識を行動自体に向けやすく、結果として小さな環境のうれしさにも気づきやすくなる。洗濯物を干している時、ちょうどいい気温で、ちょうどいい日差しが差していたりすると、それだけで少し幸せである。そういう幸せを得られる程度には、自分はまだまともだと思う。すっかり精神的に病んでいるわけではない。

しかし、である。話が戻ってしまうが、そうした幸せでは満足できない体になってしまっているのである。あの病的な、異様なまでの幸せを、また味わいたい。死ぬまで間断なく味わいたい。むしろ、あれさえあれば、死ぬまであれ以外のものはいらない。それぐらいに、あの幸せに対して焦がれているのである。

この気持ちをどう扱ったらよいか、ここのところずっと思い悩んでいるが、答えは出ていない。自然と諦めるということができないうちは、ずっと焦がれていてもよいのかもしれない。でも、それに焦がれることによって本来感じ取れたはずの幸せが感じられないのだとしたら、それももったいない話である。何も答えはでていない。

10/16 世間に評価されない人間

実に久しぶりにこのブログを書く。誰も読んでいないだろうと思いつつ。

自分の思っていることをどこかに書きたいと思ったときに、日記ではなく人目につくかもしれないところに書きたいと思うことがある。別に褒められたいとか人の役に立ちたいとかではないのだが、なぜか可能性としての観衆を欲していることがある。そういう心持ちに久々になったのかもしれない。

フラれて9か月以上になる。さすがに、フラれた直後のヒドい状態ではない。が、完全に癒されているとも言い難い。むしろ、元カノという特定個人にフラれたことから、任意の誰かと恋愛関係になれる兆しがないという問題に、自分のフォーカスがシフトしているだけである気もする。

今日は、別に恋愛に関してなにか書きたかったわけではない。久々に母校に行く機会があり、同級生と会ったり教わっていた先生と会ったりした。同級生はそれぞれがそれぞれなりの専門性を持って仕事なり学問なりに励んでいる様子であった。

かたや自分は、今年1月に転職したこともあり、ほんのり専門性のカケラ程度は持ち始めているぐらいに留まる。同級生に比べて自分は他人の役に立つ存在ではないし、また、自分の興味を他人に還元できる存在でもないと思った。

というのは、自分は、自分について一番興味があるのであって、それに比べてほかのことは大した興味がないのである(例外が恋愛状態であったが……)。これまで、自分についてネチネチ考えることにほとんど全ての時間と労力を注いでいたと言っても過言ではない。しかし、その興味や努力は、何ら他人に貢献するところがないのである。

正直、これまでその問題について深刻に考えることがなかった。他人の役に立とうが立つまいが知ったことではないと思っていたからである。しかし、先生たちに会って、彼らが自分を何らかの意味での立派な人間として扱おうとしていることを感じたときに、そうでない自分とのギャップに、暗にこの自分はこの関係において歓迎されていないことを感じたのである。そして、暗然とした気持ちになったのである。

他人から見たときに、自分にはなんら価値がない。それは、ある意味では、他人から価値を感じてもらえるところを自分から積極的に捨てていっているからでもある。世間的には自分は頭のいい部類に入るが、その頭のよさはほぼすべて自分について考えることに費やしてきた。また、歌も多少うまいが、それを利用して他人に素敵な歌を届けることもしない。自分が作るのはもっぱら自分に関する歌であり、それも極めて暗く独善的な歌である。いわゆる「いい声」では歌わないように、あまり歌声が映えないように曲を作っている。こんなことばかりしているから、自分は他人から見た自分の価値を積極的に下げにいっていると言われても、反論のしようがない。

見た目に気を遣わないこともそうである。もちろん、自分にとっての最低限ぐらいは気を遣うが、それは世間的な最低限をどうやら大きく割り込んでいるようである。そして、それ以上には気を遣わないのは、見た目に気を遣うことが世間的な「よさ」にコミットすることだからである。世間的な「よさ」を切り捨て、より個別的な感覚を追い求めたいなどと思うから、こういうことになってしまうのである。

 

 

 

5/16 永遠に元カノを引きずり続けるのだろうか

気がついたらフラれてから4ヶ月以上が経っていた。あっという間だった気もするが、その間ずっと苦しみ続けてきたのも確かである。あっという間だったというより、真っ暗な中を何も見えないまま進んできて、気がつくと4ヶ月分進んでいた、というほうが近いかもしれない。

ただ、4ヶ月分進んだ、といっても、それは過ぎた時間の話であって、距離としては全然遠くに行けていない気がする。未だに自分は元カノを引きずっている。元カノに一番愛されていた時期のことを思い出し、あの愛がもたらした幸せをこの先味わえることがあるだろうか、と思い、悲しい気持ちになる。簡単な反証はそうできる確信を持つことだが、モテるタイプでもモテたいと思う性質でもないので、少なくともこの短期間にはなかなか難しい。

あの素晴らしい愛をもう一度」という曲があるが、自分の心境はこの曲に集約されていて、これ以上自分が何か書く必要はないのではないかと思うほどである。

客観的に見れば、元カノはやや困った人であって、性格も極めて良いというわけではなかった。それがわかっているのに、付き合う中で元カノの素晴らしさを見つけてしまったがために、そしてそれがフラれるという行為によっても裏切られなかったがために、そのまま自分の胸の中で輝いていて、苦しい。

 

元カノに醒めることができないのは、元カノのいい部分も悪い部分もひっくるめて、トータルとして元カノの素晴らしさを見出してしまったからだろう。元カノという人間そのものが好きだった。人間そのもの、などという大層な見立てに自分の勘違いが含まれていればよかったが、この見立てを元カノは裏切らないまま別れてしまった。元カノは、自分が見立てた通り素晴らしい人だったのだ、と、今の自分は結論せざるを得ない。

 

新しい人間関係も生じつつあるなかで、いつまでも元カノのことを引きずるのは申し訳ないことだと思う。そう思ってみても、元カノの記憶が急に輝きを失うことはない。いつか時間が記憶を色褪せさせてくれるのだろうか。そうなることに、自分は耐えられるだろうか。

4/30 なんでも終わってしまえば空しい

自分は楽しいことがあっても「あー楽しかった!」と思って床につけるタイプではありません。楽しいことが終わると空しい気持ちが起こってきます。(なので、楽しいことよりも癒されることのほうが好きだったりします。)

失恋もこれと同じだったのだな、と今日思いました。

 

人間関係が途絶える、というのは、死別を除けばこれがはじめてかもしれません。長いこと疎遠になっているとしても、その人は心のなかでなんとなく存在しています。その意味で人間関係は「終わらない」ので、空しさを感じることはあまりありませんでした。

失恋の場合は、心のなかに留め置くのを拒否されるような、ブチっと切られてしまうような、そういう感覚がありました。果てしなく幸せで、最高に楽しかった元カノとの関係が「終わって」しまったのです。持続していた期間が長かった分、空しさが今もずっと続いています。

 

空しさは、時折楽しいことをしている最中にも浸食してきます。今日は喫茶店巡りをしたのですが、ふいに「自分は何をしているんだろう」という考えが頭をよぎり、一気に空しくなってしまいました。いろいろ足掻きましたが、空しさに抗うことはできず、悄気た状態で帰途につきました。

いったいいつになったら楽しめるようになるんだろう、と思います。もちろん失恋直後よりはマシになっています。ただ、新たな楽しみを見つけることにもなんだか疲れてしまいました。思えば、空しさや悲しさに引き摺り込まれないように、ずっと戦闘態勢で楽しめることを探していたように思います。でも、いったんそれをやめて、再び空しさや悲しさに浸ってみるべきなのかもしれないなと思いました。

 

世間はゴールデンウィークで、ここぞとばかりにそれぞれが楽しんでいます。なんだか置いていかれたような気持ちになっています。でも、仕方がないかな。

4/26 愛することは後ろめたいこと

誰かを愛する、と書くと、何かいいことをしているようですが、本当のところはどうなんだろう、と思ったりします。確かに愛するということは相手を思うことだとは思いますが、世の中には自分勝手な愛というものがずいぶんあるものです。むしろ、自分勝手な方が愛の本質なのではないかな、と思ったりしました。

 

自分が元カノを愛していたのも、自分勝手に愛していました。仮に元カノから愛情のお返事がなくなったとしても、決して止められるようなものではありませんでした。そして、元はと言えば、元カノも自分のことを勝手に好きになったのでした。

付き合い初めの頃は、自分がまだ恋愛というものを理解していない時期で、元カノにどういう感情を抱けばいいのかわかりませんでした。元カノは全身から溢れんばかりに、愛情を表現してくれました。それを見ているうちに、誰かを愛するということがどういうことか、自然にわかったのだと思います。気がついたら、自分も元カノのことを抑えきれないぐらい愛していました。

元カノがなんだか元気がない様子の時も、自分は愛することをやめませんでした。思い返せば、その時期の自分の愛は相当自分勝手だったのだと思います。元カノにとって自分から相当な量の愛を受け取ることは重荷になっていたのです。そんなことにも気づかず、自分は、元カノの疲れている様子を外部要因による一時的なものだと思い、ただ愛することで彼女を安心させようとしたり、元気づけようとしたりしていたのです。結果、2人は別れることになりました。

 

とはいえ、その時期の自分の愛を断罪し尽くす気分になれるかといえば、そうではないというのが正直な気持ちです。自分がやるべきだったのは、違う形で愛するということではなくて、愛以外の部分で元カノをケアしてあげることだったと思います。愛によって相手を信頼関係という檻に閉じ込めるのではなくて、愛は自分勝手なものだから、急に盛り上がったり、冷めたりするものだよ、だから愛せないことに悩む必要はないし、愛せない気分の時は無理に愛さなくていいんだよ、ということを伝えることだったと思います。その上で、自分の愛を、相手の重荷にならないように制御することが必要だったのだと思います。

 

愛は自分勝手で、やってはいけない、と思っても、燃え上がる時は勝手に燃え上がるし、もっと愛さなきゃ、と思っても、冷める時は冷めるものです。愛は素晴らしいものですが、決して「よい」ものではなくて、むしろ後ろめたいものだと思います。どんなに迷惑がられても、愛してしまうから後ろめたいのです。それを「よい」ものだと考えようとすればするほど、認知の不調和に苦しむことになると思います。後ろめたくても、どうしてもやりたくなってしまう、それが愛することだと思いますし、愛することの素晴らしさはそこにあると思っています。

4/20 苦しくやるせない失恋をどう過ごしていくか

失恋という出来事の後に、やるせなさがたなびいています。悲しく苦しいこの時間をどう過ごすか、というのは、人によりさまざまであるようです。

失恋をいったんなかったことにする人、元交際相手に執着しすがりつく人、前向きな受け止め方を実践し次に活かそうとする人、特に何もせずただ苦しみ続ける人、と、実にいろいろな過ごし方が想定できます。

自分は、失恋という体験を、人生のほかのイベントと同様に、ひたすら考えて過ごしています。このブログもその一環です。失恋を忘れて楽に生きるためには悪手だと思うのですが、結局自分は失恋を忘れたいのでも、楽に生きたいのでもなくて、ただ苦しみとともに考え続けたいのだな、と思ったからです。味わう、と言うといささか美化しすぎの感がありますが、失恋という出来事を、そこから得られる実利とは関係なしに、ただ自分にとって納得のいくまで見つめる、ということをしたいのだと思います。

正直言うと、ここ数日は元カノのことを考えないようにしていました。毎日見ていた元カノのSNSアカウントも見ていませんでしたし、失恋に関することは考えに浮かばないようにしていました。

確かに、精神的にはいささか楽になったのですが、一方で自分の中に違和感もあり、どうしたいのだろう、と思ったときに、一回しっかり考えるほうへ戻ってみようかと思いました。

 

失恋とは不条理の一種である、と考えてみました。運命のような、自分ひとりの力ではどうにもならないものです。どんなにベストを尽くしても、まるで天災のように襲いかかります。ほかの考え方もありましょうが、自分にとってはこれがしっくり来ています。

そう考えたときに、カミュカフカの哲学が、自分にとって急に身近に感じられてきました。といってもそれほど詳しくはないのですが、不条理に対して、折れてしまうか、神信心にすがるか、あくまでそれを踏まえて生きていくか、というスタンスを問われているようです。

また、仏教の一切皆苦ということもなんだかよくわかるようです。思い通りにならないということがこんなに苦しいことである、ずっとこのままでいてほしいという執着の気持ちがこういう気持ちである、というのが、自分の失恋を通して実例のひとつとしてよくわかりました。

自分が恵まれているかもしれないのは、まだ苦しむだけの体力があり、苦しみも自分で抱えきれないほどではないということです。もっとどうしようもない不条理にさらわれ、自分では抱えきれないぐらいの苦しみに襲われたとしたら、今すぐに仏門に入り、修行を通して自分の執着を消し去り、苦しみから永遠に逃れたい、と思ったでしょう。しかし、今の自分は、苦しみ続けたいと思っているのです。それは、ひとえに苦しみ続けるための条件がそろっているからだと思います。

 

苦しみ続けることについて、他人の苦しみがわかるようになる、ということを価値に挙げている人もいます。自分はあまりそこには価値を感じていません。誰かを癒せる存在になりたいとか、人の役に立ちたいとか、そういったことをあまり思わないせいでしょうか。

そうではなくて、ただ自己決定として、自分が望ましくないと思うものを除外し、望ましいと思えるものを考えた結果、少なくとも今は、苦しみ続けるという選択をしているのです。失恋を忘れることも、踏み台にして前向きに過ごすことも、自分にとってはしっくりきません。元カノに縋りつきたい気持ちも正直ありますが、少なくとも今は、元カノの幸せと苦しみを思いやる気持ちのほうが強いようです。苦しみを自分のなかに持って、もういいかな、と思えるまで考え続ける。ただ、思いつめるのもまた違うと思うので、自分の考えたいときに考え、考えない間も安易に手放さない、ということを、しばらくの方針にしたいと思っています。

よく、不条理を織り込み済みとして、それに対してある種開き直って、強く生きていく、という人生観を持ち出す人がいます。不条理に相対して強く生きていくというのはウソであろうと思います。不条理は人間が織り込めるはずのものでもなく、不条理に対して人間は常に弱くしかあれないはずです。不条理にあうたび人は傷つくはずです。傷つきながら、それでもなお、とその都度自分のスタンスを立て直すような形で生きていくことはできると思います。どんな不条理が来ても大丈夫、などと考えることは欺瞞に過ぎず、大丈夫じゃない、という自分を踏まえて、そこから自分のスタンスをその都度考えて、自己決定していくことのほうが、自分にとっては適切であるように思えます。