失恋ふりかえり日記帳

25歳で初めての大失恋。もがいています。

3/19 元カノへの執着や未練が少し手放せたきっかけ

2週間ほど前でしょうか。今よりもっと、元カノに対する未練で苦しんでいたときに、ふと境界性パーソナリティ障害(通称・ボーダー)について調べてみたことがありました。名前は知っていたのですが、具体的な症状は知りませんでした。

ボーダーの特徴として、精神が過敏になっていて、ヒリヒリの皮膚みたいに、ちょっとした刺激にも耐えられない、というような記述を見かけて、ハッとしました。自分が見る限り、元カノの様子そのものだったからです。

 

付き合っている時から、元カノは自分の気持ちに振り回されていました。他人とすぐ比較し落ち込み、仕事が重なればタスクの多さとプレッシャーで落ち込み、仕事がなければ将来の不安で落ち込み、といった調子で、年の3分の2は深刻に落ち込んでいるような人でした。そして、別れも、自分から見れば不可解な理由で訪れました。

一番自分にとって引っかかっていたのは、別れの際に元カノの気持ちをしっかり伝えてくれなかったことでした。別れた直後に直接会ったにも関わらず、話が核心に迫る前に、元カノは逃げるように帰ってしまいました。自分はしっかりフラレていない、という感覚があり、自分や元カノ自身の気持ちに、一回でいいから向き合ってほしい、そうしないと付き合っていた頃の気持ちが整理できない、と思っていました。

 

元カノがボーダーであると言うつもりもないですし、ボーダー予備軍であると断言するつもりもありません。重要なのは、その時に、彼女のようなナイーブすぎる人というのは他にもそれなりの数いるのだ、と気づいたことです。

これまで自分は、気持ちというものをあまり大事にしてきませんでした。自分は比較的鈍感なタイプで、自分の気持ちを全然ケアしなくても、なんとなく生きていけてしまうタイプです。だから、大人なら自分の気持ちは自分で面倒を見るべきだろう、という考えでした。

元カノがその点でナイーブな人間だということも知っていましたが、良く言えばひとりの大人、成熟した人間として信頼していたので、自分の気持ちは自分で扱えるし、扱いきれなければ早い段階で相談してくれる、と思っていたのです。悪く言えば、自分の気持ちに振り回されてしまうのは甘えだろう、と思っていたのかもしれません。

それが、ボーダーという病気を知って、ここまで症状がひどくなる人もいるのか、と思ったのです。ボーダーまで至ってしまえば、自分で気持ちの面倒を見ろ、とはとても言えません。

元カノがどの程度までボーダーに近かったのかはわかりません。が、元カノが感情に振り回されていたのは、甘えとかではなくて、障害の文脈で語られるものと地続きの、「仕方がない」ものだったのかもしれないな、と思ったのです(発達障害と甘え、の文脈と相似形だと思います)。

 

そう思うに至って、自分の中にいろいろな気持ちが沸き起こりました。

 

3/15 むなしい気持ち、ラクな気持ち

今日もあるタイミングからなんだか虚しさを感じてしまい、自分のやっていることが全て楽しく感じられない、これから一生どうやって過ごしていったらよいのだろうか、というようなことを思っていました。

そういう沈んだ気分になったときに、マスダヨシツグさんの動画を見るのが習慣になりつつあります。マスダさんは何かを真理として突きつけるのではなくて、気持ちが少しでもラクになる方法をあれこれ教えてくれている感じがして、聞いていて楽しいです。

今日も、自分に関係しないトピックも含めていくつか動画を見ました。むなしい気持ちのときはその気持ちのただなかに佇むことしかできませんが、マスダさんのお話は、そこから自分をヒョイっと拾い出してくれます。

あまり力感のない感じが好きなんだと思います笑。今まで考えたことのないような視点の切り替え方をいろいろ教えてくれるので、自分の気持ちをいろいろな角度から眺められるようになる気がします。他の似たようなアプローチをされる方の動画も、もしあったら見てみたいと思っています。

 

そんなこんなで、今はややラクな気持ちになっています。全てがむなしいと同時に、全てが幸せなのだ、ということなのだな、と感じています。むなしさの渦中から抜け出すことで、身の回りの幸せを十分に享受できるような心持ちでありたいなと思っています。

3/14 その2 元交際相手のことを考えてしまう

頭の中は徐々に整理されてきているはずなのに、いまだにかなりの頻度で元交際相手のことを考えてしまって、苦しいです。

相手のことを考えるのがクセになってしまっているみたいです。未練はもうほとんどないはずなのですが、過去のデートの記憶や、二人の間でうまくいかなかったちょっとしたやり取りなどを思い返してしまいます。

 

今日は諸事情あって仕事を休んでいました。明日からまた仕事だと思うとうんざりしてしまいます。

気持ちが沈むと、決まって元交際相手のことを考えてしまいます。落ち込んだ気持ちと元交際相手がまるでリンクしているようです。

なんのために生きているのか、という言葉が口をついて出るようになり、色々なことがむなしくなってしまいます。

 

友達として付き合っていきたいと言っても、相手がもし結婚してしまったら、連絡は一切取れなくなってしまうかもしれない、などと考えると、悶々としてしまいます。再び付き合うことはあまり望んでいませんが、相手とやり取りができなくなるのは嫌だと思っています。

3/14 チャットモンチーのシャングリラが失恋の歌に聞こえる

ラジオからチャットモンチーのシャングリラが聞こえてきました。知っている曲なのでなんとなく耳を傾けていました。

恋愛を知る前は漠然としか理解できなかった歌詞が、突然失恋の歌として飛び込んできました。

 

調べてみると、シャングリラを失恋の歌として解釈している人は全然いないようですね。携帯電話をたまたま川に落としちゃって、という筋の解釈が多いようです。

自分はそこを「わざと落とした=投げ捨てた」と解釈していました。そうすると、失恋して、携帯を投げ捨てる「現在」と、サビの恋人に呼びかけるような言葉の「過去」という重層的な構造があるような気がしてきました。まあ曲解だと思いますが。

 

そう解釈すると、希望の光なんかなくったっていい、という歌詞は、失恋直後における(半ばヤケでもあるような)立ち直るための言葉に聞こえてきます。携帯電話は元交際相手とのよすがであって、相手への執着の象徴だとしたら、それを投げ捨てて前を向いて歩こうとしていながら、最後は元交際相手の(への?)呼びかけを思い出して終わる、というアンビバレンツな心情が表れているように感じられます。

明るくてズンズン進んでいくような曲調がかえってとても切なく感じます。別れから立ち直れない気持ちと、立ち直ろうと無理をしてしまう気持ちと、自分とは関係なくどんどん状況が変わっていく時間の流れの非情さ。自分の心境がまさにそういうものだから、シャングリラという曲に自分の心境を投影してしまったのだと思います。

3/11 その2 彼女を少し許せそうです

少し、彼女のことを許してもいいかな、と思い始めました。

 

実は、しっかり別れられていない、という感覚がずっとあるんです。フェードアウトしたとかではなくて、ちゃんと別れようとは言われたんですけど、ラインで言われただけなんですよね。彼女の声で聞けていない。彼女がどういう表情で、どういう声で、どんな気持ちでその言葉を言おうとしていたのか、ずっとわからないままなんです。

 

別れた後、一度だけ会いました。その時にしっかりと別れの言葉が聞きたかったのですが、いっしょにご飯だけ食べて、どうでもいい話をして、すこし不自然なフレンドリーさをみせて、彼女はそのままスルっと帰ってしまいました。その様子だけ見ても、自分と彼女の心がもはやまったく通っていないのだな、ということはわかったので、その日はそれだけでも満足していました。

 

でも、何日かたって、結局自分の気持ちにキリがついていない、ということを感じ始めました。別れた実感は湧いたけれども、彼女の気持ちは何もわかっていない。やっぱり感情のやり取りをして、しっかり別れたい。

そのあとラインで少し揉めたりして、今に至るまで彼女とは会っていません。もう今さら、別れのときの彼女の心情など聞けようもないのかなと思います。しっかり別れたい、という自分の願いは、かなわずじまいになったようでした。

 

そのことが、今日にいたるまでずっと引っかかっていました。別に彼女を責めたい気持ちがあるわけではないのですが、不誠実だな、とどこか責めてしまうところもあって。

 

それが、今日になって、ふと、彼女は彼女で辛いんだな、ほんとは彼女自身の気持ちと向き合って、自分の気持ちにも向き合ってほしいけど、それができなくてもしょうがないかな、と思えるようになりました。別に彼女を蔑むつもりはないです。彼女は繊細なタイプの人間で、自分のような鈍感な性質の人間よりも、とても多くのことを感じ取るようです。その結果、向き合いきれないぐらいの感情の量に襲われているのだとすれば、向き合うことを強要するのも彼女には申し訳ないかな、と。

 

思えば、付き合っている間も、彼女が感情に振り回されるのをそばでずっと見てきました。あまり助けにはなれなかったけど、そうしたことで傍目には迷惑に感じられるような言動をされても、彼女なら許せました。そういうところも含めて、彼女が丸ごと好きでした。

そのときの感覚が、ふと蘇ってきたんです。あきらめともまた違うけど、彼女を受け入れるというか、そういった部分も含めて、ひとりの人間として理解する、という感覚が。

ふられたあと、ふられる前の自分とふられた後の自分が、同じ人間だとは思えなくなっていました。ずっと、自分という人間がわからなくなっていました。それが辛さの原因のひとつだったのですが、今日のこの感覚も、自分という人間を取り戻すための大事な感覚のひとつなのだと思っています。

 

自分と彼女がどろどろに溶け合っていた状態から、自分という人間の輪郭を取り戻して、彼女という人間を切り離された個別の人間として理解できるようになって、そうしてはじめて、人間同士の適切な関係をもう一度始めることができるのかな、と思っています。

3/11 思い立って、YouTubeで失恋と検索してみました

失恋について考えたい気分になりました。ウェブ上のページはかなり読み漁ってしまって、あまり新しい内容の記事も見つからないので、ふと思いついてYouTubeで「失恋」と検索してみました。

 

まず最初に出てきたのが、お坊さんが失恋について説諭する動画。

 

 

いい顔のお坊さんが、けっこうシビアなことを言っている動画でした。最後まで見たけど、精神のレベルが低いのでなんか受け入れがたかったなあ……。

 

その次に見たのが、この動画。

 

 

サムネで想像したのと違って、淡々とした料理と食事の風景をバックに、失恋の経緯がつづられていく、という静かな展開の動画でした。個人的にかなり心に来るものがあって、見ながら泣いてしまった。淡々とした感じに弱いんですよね。

 

その次がこの動画。占い師の方がしゃべっているだけの動画なのですが、個人的に大ヒットでした。

 

 

うさんくさいノウハウ系かな(←失礼)と思って見始めたのですが、身体論的なアプローチや、価値を相手から取り戻す、といったあたりの話がすごく腑に落ちて、自分の気持ちがかなり楽になりました。単に自分が好きな考え方というだけかもしれませんが……。まあ、自分が楽になれたのでそれだけで万事OKかな。

失恋ふりかえり日記帳、はじめます

25歳男です。今年の1月に、1年半付き合っていた彼女にフラれました。大好きな彼女でした。

 

それから今日まで、苦しみとあきらめの日々を送ってきました。もがいている中で、なんだか少しだけ立ち直ってきたような気もします。少し余裕を持って自分の気持ちに向き合えるようになってきたように感じるので、このタイミングでブログを始めてみようかな、と思いました。

 

これから、その日その日で思ったことも書きますし、スマホにつけていた日記から、別れた直後の苦しんでいた時期のものを掲載するかもしれません。自分の気分の上がり下がりに合わせて、気のおもむくままにやっていけたらな、と思っています。よろしくお願いします。