失恋ふりかえり日記帳

25歳で初めての大失恋。もがいています。

4/17 大事にされるとつらい

ちょっと前に誕生日がありました。当然元カノからお祝いは来ませんでした。ただ、実家暮らしなので家族がお祝いをしてくれました。

なぜか、お祝いされると思ったら、心に沁みて泣きそうになってしまいました。泣いたら家族に悪いので何事もなかったかのように楽しみ、やり過ごしましたが。どうしてこんな気持ちになったのか、自分でもよくわかりません。関係がありそうなことから書きつつ、考えてみます。

 

失恋してからこの方、他の人から大事にされると、つらい気持ちになるようです。

 

言うまでもなく、交際中に自分を一番大事にしてくれたのは元カノでした。

自分には、他人の生き方はたいてい良く思えないが、自分の生き方も良いとは思わない、という、割と身も蓋もない感覚があります。中高の頃はひどい自己嫌悪に悩まされていました。それから今に至るまで、根拠のない自己肯定はしないようにして生きてきました。

それが、彼女と付き合って、恋愛のさなかで自分を無条件に肯定されることの安心感に目覚めてしまったのでしょう。愛されることを通して、生きていくための鎧を剥ぎ取られてしまったようです。

 

誕生日は、その人が生まれたことを祝う日です。自分は昔から、どんな気持ちで人間を祝ったらいいのかわかりませんでした。自分にも他人にも、祝うという行為によって無責任かつ無思慮に無条件肯定をしてしまってよいものか、と考えていました。

初めて誕生日を祝いたい、と思ったのが彼女でした。彼女にはたくさんの欠点がありましたが、それでも、自分にとっては初めての祝うべき相手でした。

誕生日を祝うという行為は、相手に愛を与えるのと近く感じます。恋愛における愛が、彼女のおかげで初めて理解できました。だから、誕生日というものが、彼女と付き合い別れたことで変質したのだと思います。

 

祝われることを考えるだけで、なぜ涙が出るのでしょうか。嬉し涙ではありません。でも、悲しみ一辺倒でもない、沁みるとしか言いようのないような涙です。

 

家族が、自分のことを考えて、自分の好きな料理を用意してくれていると考えるだけで泣けてきます。フラレて、ひどいコミュニケーションをされ、さんざん傷ついたのを、傷つけられて当然の自分なのだと思い込むことで納得しようとしていたのかもしれません。家族からちゃんと愛されていることと整合性が取れず、本来の傷つきが蘇って、泣いているのかもしれません。

フラレてから、他人に対しては虚勢を張って立ち直ったふりをして、ずっと気を張っていたのもあるかもしれません。家族の愛に触れて緊張が保てなくなって、つらい気持ちになっているのでしょうか。

 

自分がもし愛されて良い人間なのだとしたら、フラレたのはいったいなんなのでしょう。自分にすべての理由があるわけではないとしたら、結局運命だったとしか言いようがなくなります。それがつらいのかもしれません。愛されてはいけない自分として生きるか、家族の愛を受ける代わりに別れを運命として受け入れるか。なぜ元カノとの恋愛は終わってしまったのでしょうか。納得できません。理解できません。