失恋ふりかえり日記帳

25歳で初めての大失恋。もがいています。

4/20 苦しくやるせない失恋をどう過ごしていくか

失恋という出来事の後に、やるせなさがたなびいています。悲しく苦しいこの時間をどう過ごすか、というのは、人によりさまざまであるようです。

失恋をいったんなかったことにする人、元交際相手に執着しすがりつく人、前向きな受け止め方を実践し次に活かそうとする人、特に何もせずただ苦しみ続ける人、と、実にいろいろな過ごし方が想定できます。

自分は、失恋という体験を、人生のほかのイベントと同様に、ひたすら考えて過ごしています。このブログもその一環です。失恋を忘れて楽に生きるためには悪手だと思うのですが、結局自分は失恋を忘れたいのでも、楽に生きたいのでもなくて、ただ苦しみとともに考え続けたいのだな、と思ったからです。味わう、と言うといささか美化しすぎの感がありますが、失恋という出来事を、そこから得られる実利とは関係なしに、ただ自分にとって納得のいくまで見つめる、ということをしたいのだと思います。

正直言うと、ここ数日は元カノのことを考えないようにしていました。毎日見ていた元カノのSNSアカウントも見ていませんでしたし、失恋に関することは考えに浮かばないようにしていました。

確かに、精神的にはいささか楽になったのですが、一方で自分の中に違和感もあり、どうしたいのだろう、と思ったときに、一回しっかり考えるほうへ戻ってみようかと思いました。

 

失恋とは不条理の一種である、と考えてみました。運命のような、自分ひとりの力ではどうにもならないものです。どんなにベストを尽くしても、まるで天災のように襲いかかります。ほかの考え方もありましょうが、自分にとってはこれがしっくり来ています。

そう考えたときに、カミュカフカの哲学が、自分にとって急に身近に感じられてきました。といってもそれほど詳しくはないのですが、不条理に対して、折れてしまうか、神信心にすがるか、あくまでそれを踏まえて生きていくか、というスタンスを問われているようです。

また、仏教の一切皆苦ということもなんだかよくわかるようです。思い通りにならないということがこんなに苦しいことである、ずっとこのままでいてほしいという執着の気持ちがこういう気持ちである、というのが、自分の失恋を通して実例のひとつとしてよくわかりました。

自分が恵まれているかもしれないのは、まだ苦しむだけの体力があり、苦しみも自分で抱えきれないほどではないということです。もっとどうしようもない不条理にさらわれ、自分では抱えきれないぐらいの苦しみに襲われたとしたら、今すぐに仏門に入り、修行を通して自分の執着を消し去り、苦しみから永遠に逃れたい、と思ったでしょう。しかし、今の自分は、苦しみ続けたいと思っているのです。それは、ひとえに苦しみ続けるための条件がそろっているからだと思います。

 

苦しみ続けることについて、他人の苦しみがわかるようになる、ということを価値に挙げている人もいます。自分はあまりそこには価値を感じていません。誰かを癒せる存在になりたいとか、人の役に立ちたいとか、そういったことをあまり思わないせいでしょうか。

そうではなくて、ただ自己決定として、自分が望ましくないと思うものを除外し、望ましいと思えるものを考えた結果、少なくとも今は、苦しみ続けるという選択をしているのです。失恋を忘れることも、踏み台にして前向きに過ごすことも、自分にとってはしっくりきません。元カノに縋りつきたい気持ちも正直ありますが、少なくとも今は、元カノの幸せと苦しみを思いやる気持ちのほうが強いようです。苦しみを自分のなかに持って、もういいかな、と思えるまで考え続ける。ただ、思いつめるのもまた違うと思うので、自分の考えたいときに考え、考えない間も安易に手放さない、ということを、しばらくの方針にしたいと思っています。

よく、不条理を織り込み済みとして、それに対してある種開き直って、強く生きていく、という人生観を持ち出す人がいます。不条理に相対して強く生きていくというのはウソであろうと思います。不条理は人間が織り込めるはずのものでもなく、不条理に対して人間は常に弱くしかあれないはずです。不条理にあうたび人は傷つくはずです。傷つきながら、それでもなお、とその都度自分のスタンスを立て直すような形で生きていくことはできると思います。どんな不条理が来ても大丈夫、などと考えることは欺瞞に過ぎず、大丈夫じゃない、という自分を踏まえて、そこから自分のスタンスをその都度考えて、自己決定していくことのほうが、自分にとっては適切であるように思えます。