失恋ふりかえり日記帳

25歳で初めての大失恋。もがいています。

10/16 その2 やはり、あの幸せに焦がれる

最近は、幸せについて考えていた。幸せは結果ではなく過程にある、だから幸せになろうとするのはその時点で間違っている、という記事を読んでほほうと思ったりした。

最近の自分は、やはりあの幸せがないと自分は満たされない、あの幸せを知った今となっては、別の人であれ恋愛関係になって生きていかないと満たされることがないだろう、などと思っていた。そして、そのことと、幸せは結果ではなく過程である、ということがどう関係づけられるか、ということをぼんやりと思っていた。

 

自分のあの恋愛は、事故のような恋愛だったと思う。自分がなにか積み上げた結果としての恋愛ではなく、自分が全く傍若無人にふるまっていて、それを勘違いした誰かによって生じた恋愛であったに過ぎない。自分はあの恋愛を不正に得てしまったのである。

いや、別に、必ず恋愛には努力が必要である、と言いたいわけではない。しかし、自分のような他人から必要とされない方向へ積極的に歩みを進めている人間にとっては、恋愛というのは相当な自発的努力がないと得られないものであると思っている。あのときのように、事故的な出会いがないものかと思ってしまっているのも事実だが……。

その事故的な恋愛において、自分は、受動的に幸福を享受していたのである。確かに、あの恋愛における幸せは、幸せになろうとして掴んだものではなかった。しかし同時に、自分の人生の過程にあった、とも言いにくい気がするのである。少なくとも、自分が順調に生きていたらなかったイベントであるように思う。事故なのだから。

そうした幸せから解放されて、まったく虚脱状態になり、またあの幸せを求めてしまっている自分は、確かに、やっと過程から幸せを得るということをやり始められるのかもしれない。

しかし、そのようにして得た幸せも、付き合っていたときのあの幸せを決して超えはしないだろうと思ってしまう。種類が違うのだと言われてもなかなか聞き入れられない。やはり幸せの絶対値のようなものがあって、それが、あの幸せを超えることはないだろうと思ってしまうのである。

 

それでも、幸せは結果ではなく過程である、という話は、最近の自分を見つめ直すのにいいきっかけになった。最近は、自分の不首尾のせいで日々幸せを取り逃している、という気持ちになっていた。本当は幸せになれるはずの出来事がそこかしこに転がっているのに、その幸せを受け取り損ねている自分が悪いのだ、と。

しかし、もし幸せが結果ではないとしたら、不首尾というのはそもそも成り立たないことになる。何かをするとき、そのしているさなかにおいて得られるのが幸せであるはずだからだ。最近の自分は、過去の事故的恋愛の幸せに焦がれるあまり、それに類似した事故的な幸せを求めてしまっていたのかもしれない。自分がそうした事故に遭えないのは、自分が不首尾だからだ、ということなのである。

そうではなくて、自分が生きていくうえでの行動の1つ1つが、それ自体としてすでに幸せなのである、ということなのである。そう言われてみれば、意識を行動自体に向けやすく、結果として小さな環境のうれしさにも気づきやすくなる。洗濯物を干している時、ちょうどいい気温で、ちょうどいい日差しが差していたりすると、それだけで少し幸せである。そういう幸せを得られる程度には、自分はまだまともだと思う。すっかり精神的に病んでいるわけではない。

しかし、である。話が戻ってしまうが、そうした幸せでは満足できない体になってしまっているのである。あの病的な、異様なまでの幸せを、また味わいたい。死ぬまで間断なく味わいたい。むしろ、あれさえあれば、死ぬまであれ以外のものはいらない。それぐらいに、あの幸せに対して焦がれているのである。

この気持ちをどう扱ったらよいか、ここのところずっと思い悩んでいるが、答えは出ていない。自然と諦めるということができないうちは、ずっと焦がれていてもよいのかもしれない。でも、それに焦がれることによって本来感じ取れたはずの幸せが感じられないのだとしたら、それももったいない話である。何も答えはでていない。